ネコノツメ編纂室

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魯迅著「故郷/阿Q正伝」 後篇

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・内容 10

・読みやすさ 10

・おもしろさ 3

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:『名作』の入門書を探している方

 

 

 魯迅の有名なエピソードとしては、かつて広東で行われた、とある講演会がある。

 さまざまな政治思想が跋扈し、混沌を極めていた当時下、もちろんのことながら、政治思想の話はNGだった。話してしまえば、斬首はまぬがれなかった。

 そこで、魯迅が広東で講演した内容は、なんてことはない酒の話であった。

 題目は『魏晋の気風および文章と薬および酒の関係』。

 二日間にわたって、彼は「酒談」を滔々と語った。

 しかし、なにもふつうの「酒談」ではなかった。話のなかで暗に、古代の中国を述べつつ、今生きている時代を痛罵したのである。いわば、“裏”のある講演を行ったのだ。酒の奥底にある“本質”を全員が全員承知したわけもなく、「ただの酒の話」として面白く聞いた者もいたようだ。それほどまでに“表裏”ともに違和感なく口頭で語り尽くした魯迅の頭脳たるやおそろしいものがある。それにばれてしまったら斬首されるかもしれぬのに大した度胸である。

 この姿勢はなにも弁舌のみでなく、無論のことながら、小説でも息をし、むしろ研ぎ澄まされた鋭さをもって、読む者に「深刻な問題」を穏やかに叩きつけている。

 

 

吶減

 魯迅の小説の魅力とはなにか。

 それは前篇にも記したが、「悲哀」「滑稽」「隠喩」であり、その巧みな融合にあるだろう。

 溶け合ったさきにある、徹底したブラックユーモアが読者を眩惑するのである。

 しかし、彼の小説の読み味をあっさりと「ブラックユーモア」の一言で片付けるには、あまりに表現不足だといえる。彼の小説には“奥行き”があり、繊細な「旨み」があるのだ。この「旨み」を発揮する短篇はほぼ皆無といっていい。彼だけが持ちうる作品の特徴といえよう。

 わかりやすく雰囲気を伝えるなら、気の置けない友人が「身体障害者が電車内で屁をこいた」状況に直面したときの話をしてくる感じに近いだろうか。

 聞き手は、「電車内で屁をこいた」状況に笑うべきなのか、はたまた「身体障害者」であることに困惑するのか、それとも「身体障害者が電車内で屁をこく」リアリティに動揺するのか。

 収録された小説はいずれも、『朝花夕拾』あったエッセイとページ数は変わらない。ごく短いものばかりだ。『阿Q正伝』が長く感じられるぐらいだ。

 

孔乙己

 タイトルにもなっている「孔乙己」という男についての内容になっている。

 孔乙己はまわりから“変人あつかい”され、笑い者にされている人物だ。

 背が高く、傷が絶えず、白髪まじりの髭を伸ばし放題、衣服は乞食のようにボロボロ、喋り方は常に「なり・けり・あらんや」といった文語調を駆使し、どこか斜に構えている、“仙人”然としたオッサンである。

 呼ばれている名も本名ではなく、当時流行っていた「上大人孔乙己」という習字のお手本をモジって酒場の連中がつけたアダ名である。

 彼が酒場にあらわれるたびに、常連客はおもしろおかしくからかい、かつてインテリであったらしいということから、「本当におまえは勉強ができたのか」とこき下ろす。そして、それに抵抗する孔乙己の反応を彼らは愉快がった。

 そんな惨めな孔乙己は外貌のとおり、貧乏であり、酒場でもツケで飲む有様。稼ぎはなく、もっぱらしょうもない窃盗で食い扶持をつないでいる節があり、ある日のこと、窃盗現場を取り押さえられ、足を折られてしまう。しばらくして、彼は足を引きずり、酒場にやってくるが、そこで「足を折られたこと」を揶揄され、かろうじて保っていたプライドがズタズタ。店にやってこなくなってしまうのであった。

 話の全容はこんなものである。

 高尚な知識人が庶民に徹底的に馬鹿にされる内容だ。

 大勢の者が「知識」を持たざれば、たとえ少数の者が「知識」を持とうとも“何ら意味はない”ことを辛辣にあらわしている。

 「孔乙己」の雰囲気からも、どことなく『論語』を記した偉大な中国思想家の孔子を思わせる。もし仮に孔子が混沌とした中国に生を受けていたなら、と考えると皮肉だ。

 そして本篇は『朝花夕拾』のエッセイで登場した『范愛農』で扱われている、魯迅の旧友・范愛農の晩年の様子にどことなく似てはいないだろうか。といっても、読んでなければ分からないかもしれないが、范愛農の死ぬ間際の行動と、孔乙己の一連の流れが酷似している。おそらく、本篇の下地になっているのは、范愛農との交流とそのため、范愛農の性格と死に際の様子は本篇のあらすじで大体掴めてしまったように思う。この旧友の生い立ちはなにも本篇のみでなく、『酒楼にて』でも登場している。日本で知り合い、仲違いしたあと、中国でふたたび巡り合い、酒を飲み交わした頃のエピソードはそちらでくわしく書かれている。

 

 父が愛息子を病気から救うべく、食べれば必ず治るとされる《薬》を「裏の行商」から手に入れ、その《薬》の背景が行商人の口から明らかにされていく話だ。

 この《薬》というのが「人血饅頭」であり、名の通り、殺された人間の血が染み込んだ饅頭である。そして、使用された血がどういったことを成してきた人間の血なのか。

 時代を投影した、たいへん皮肉な話である。

 平和な今だからこそ、読み手は本篇を読んで訝しげに思ったり、義憤にかられたりするかもしれない。

 しかしながら、これはなにも「中国人だから」というわけではない。

 どの国の者だろうが、状況が逼迫し、政治思想がゆらぎ、近しい者さえ疑わしい世の中で、科学的根拠のないものにすがりたくなる心情は当然のように思える。

 それに、殺された人間の「当たり前のこと」、「人として主張してもよい権利」が《悪》とみなされ、《異端》として処刑されてしまい、まさに「食い物」にされてしまうのも、至極当然といえよう。

 “普通”や“常識”というのは、時の流れとともに、徐々に移ろう。

  いまだからこそ、作中に登場する人々を「頭がおかしい」と判断できるが、こういった「異質の日常」が当時の彼らにとっては「普通の日々」だった。

 いまでこそ「普通の日々」と思える我々の生活も、数十年先、数百年先には果たして「普通の日々」として未来の人々に我々は認識されるだろうか。

 読み解けば、ふと《今たしかに息をしている常識》を疑いたくなる、うすら寒い作品だ。

 

小さな出来事

 まさにタイトルどおりの内容である。

 魯迅にとって、たいへんに考えさせられた事件の顛末を小噺として仕立て上げられている。といいつつ、これはなにも魯迅だけが痛感した出来事ではない。

 この何気ない小噺は、「都会に生きる者」にこそ読んでほしい、いや、読まなければならない掌篇であると確信している。

 『吶減』のなかでもっとも短い作品である。

 内容は以下のとおりだ。

 あるとき、主人公の「僕」は、とある目的地に向かって急いでいた。

 人力車(現代日本に当てはめるならば、タクシーだろう)をつかまえ、S門へと急行する。途中、乞食まがいの老婆が「僕」の乗っている人力車に接触し、転んでしまう。

 「僕」は思うのだ。

 みたところでは、怪我もしていないようだし、ただ老婆が勝手に転んだだけなのだから、さきを急いでくれ!と。

 しかし、車夫は人力車を止めると、老婆を助け起こし、一緒にそのまま交番へと足を運ぶのであった。

 客を無視し、なんでもない乞食まがいの老婆の身を案じたのである。

 当然のごとく、急いでいる「僕」はその車夫の態度に憤慨。

 客をほったらかしにするとは何たる奴だと。

 だが、交番から警官があらわれ、「ほかの人力車を探したまえ」と、どこか侮蔑のこもった口調で告げられると、急に自分のいままでの考えが恥ずかしく感じられ、車夫に渡してくれと、お金を警官にたくすのである。

 そしてお金をわたしてしまったあと、不意に「僕」は愕然とする。

 はたして、この「僕」が支払ったお金とは《何に対して支払ったお金なのか》。

 多くは語るまい。本篇は、読者が深く考え込むことによってのみ、価値が生まれる作品だと、強く思っている。

 

故郷

 魯迅の体験が非常に色濃く出た短篇。

 本篇はエッセイである『百草園から三味書屋へ』とあわせて読むと、より一層味わい深い作品となる。

 なにせ、『百草園から三味書屋へ』にてほのかに登場する、親友を主に扱った話なのだ。

 まさに『故郷』というタイトルにふさわしく、本篇は読者の郷愁の念を誘う、淡くも切ない物語だ。

 昔、父のもとに召使として働いていた男の息子に閏土という少年がいた。この少年は主人公の「僕」と年齢がちかく、よく共に野を駆け、遊びまわった仲だった。

 やがて成長し、大人になった「僕」は久々に故郷に戻り、家に滞在していると、かつての閏土の姿が。

 気さくに声をかけるも、彼は身を震わし、昔のように親しく接しようとはしなかった。なぜなら、「僕」の父と彼の父との関係のように、「僕」と閏土もまた、“親友”ではなく、“主従”となっていたからだった。そして、ふとみると、自分の息子と閏土の息子が少年頃の自分たちのように仲良くしている……

 本篇はなにも、郷愁の念を誘うだけではない。《狭間》にゆらぐ小説ともいえよう。

 大人になるにしたがって、複雑にこみいってくる《社会的立場》や《関係性》を、少年時代を強烈ににおわせることによって浮き彫りにしているうえ、「僕」が大人になってなお、子供の「素直な関係」を目の当たりにすることで、より問題提起の深刻化がなされてある。

 同じ人間であるにもかかわらず、文化、伝統、労働、収入、思想の《差》でいがみ合い、歩み寄ろうとしないのはなぜだろう。

  郷愁の念を抱きつつ、読者は思わず、重厚でシンプルなテーマに足踏みしてしまうはずだ。

 

阿Q正伝

  さて、そろそろお気づきではないだろうか。

 魯迅が主に小説から放っているものは、「人間と人間の関係」、より広く捉えるならば「大衆性」である。

 この「大衆性」をむき出しにするために、魯迅は“ギリギリ”の「個」を必ず登場させる。

 では、その“ギリギリ”とは何たるか。

 それは、どこか異質で、ひとびとに馬鹿にされ、嫌われている者だ。『孔乙己』や『薬』でも登場している。

 本篇も、もちろんのことながら、存在する。むしろ、本篇は、その「大衆と個」を対比し、「大衆性」のもちうる“滑稽さ”をあらわした代表的作品であり、また彼の魅力をふんだんに詰め込んだ物語である。

 主人公は阿Qという男だ。

 まず名前からして、東洋と西洋が混合している、当時の中国を映したような混沌とした名である。

 そのうえ、孔乙己よろしく、彼も「実直」や「働き者」といった、すぐれた評価をもつ者でありながら、抜けている面を持ち、貧乏で、疥癬あとのハゲが目立つ風貌をしている。

 本篇は、この男の革命前後の村での生活にスポットをあて、巻き起こる数々の出来事を流れるように語ったものだ。中篇とよぶにふさわしい文量での構成でもあり、各節ごとに考えさせられる内容が詰まっているので、こまかな説明は省く。解説するとなると、とめどない。これだけでひとつの記事が練れそうだ。

 なので、「ただ、読むべし。」としか記さない。なぜなら、説明せずとも、奥底に隠されたテーマに触れることができるからだ。

 代表的作品でありながら、ある意味でもっとも易しい内容になっている。そして、読み解けば読み解く分だけ、いくらでも解釈できる“物語の余地”には息を呑まずにはいられないだろう。

 助言を与えるなら、阿Qを《狂人》とみるか、《常人》とみるか、そこの一点だけである。

 単純にして深刻。

 

端午の節季

 主人公の方玄綽は半官半民で教師をしている男。妻があり、子があり、そこそこの収入のもとに生活している。

 例にもれず、『孔乙己』の孔乙己や、『阿Q正伝』の阿Qとおなじく、どこか周りの人間に疎まれている。

 彼は独善的かつ自己中心的な男で、世のなかの不平等を、持論の「似たり寄ったり説」で仕方のないことだと考えている。ちなみに彼の唱える「似たり寄ったり説」とは兵士が農民をいたぶっていたとして、その農民がもし仮に逆の立場なら、この兵士とまったく同じことをやっていただろうという考えである。

 そういうふうに、常に世の不条理さを持論で乗り越え、事なかれ主義で生きてきた方玄綽が給料未払いにより、次第に逼迫していく様子を描写した作品である。

 革命前後、教育にお金を出されなかったために生まれた小説ではあるが、これもまた、一概には片づけられない問題を秘めているといえよう。

 

あひるの喜劇

 前篇にて登場した『兎と猫』の姉妹作品。

 童話的要素が含まれた短篇である。

 盲目のロシア詩人が「僕」の家へやってきて、カエルの鳴き声すら中国にはないという。悲しみに暮れる詩人に「僕」は「中国だって立派にカエルは鳴きますよ」ということを実証すべく、オタマジャクシを飼い始める。そして、ことあるごとに、詩人は「あれを飼いなさい」「これを飼いなさい」とすすめ、行商人もよく家へあらわれるようになった。あるとき、行商人が「あひるの雛」をもってくる。詩人はそれをたいへん気に入り、「僕」たちも首ったけとなり、飼い始める。あひるの雛はとても可愛く、やがて「あひるの雛」中心の飼育になっていく。すると、あひるの雛は庭にいるオタマジャクシを食い漁り、オタマジャクシがカエルとなる頃には、成長したあひるが「ガーガー」とみにくい声をさせるばかり。詩人も、あひるが成長する頃には祖国を恋しがって姿を消してしまう。

 やはり『兎と猫』とおなじく、表面だけなぞれば、飄然としてほのぼのとした話である。

 しかし、これにも当然“裏”がある読み方をしても違和感がない。

 本来、庭を占めるべきであった「カエル」が「あひる」によって駆逐され、最後には声の汚い「あひる」だけが残ってしまう。当事者である盲目のロシア詩人はいずこへ。

 本篇はロシアによってもたらされた《赤化運動》について暗に語られたものだろう。熱に浮かされ、夢中で歩んだ、共産主義の道はよい“選択”だったのか。共産主義を実行した果てに《我々には何が残されたのか》。そういった“疑念”がぼんやりと浮かび上がってくる童話だ。

 この作品をとおして、政治思想に興味をもち、資本主義とはなにか、共産主義とはなにか、について考えだした方がいれば、それは本篇を非常にすばらしく読みこんだ者といえるだろう。

 

 

付録

 

狂人日記

 『狂人日記』と名のつく作品はなにも魯迅のものばかりでない。

 ほかに、ロシアの作家ゴーゴリウクライナ生まれの小説家兼戯曲家。ロシア文学の父。かのドストエフスキーに影響を与えたとされる、世界文学では大御所中の大御所)や、日本では色川武大阿佐田哲也というペンネームももち、どちらかといえば、純文学よりも大衆文学の『麻雀放浪記』のほうが知名度が高い小説家。しかしながら、純文学も地味ながら数々の秀作を生み出した)が同じタイトルで作品を発表している。

 元祖はゴーゴリ、次点で魯迅ゴーゴリの影響を受けて本篇を書きあげた)という並びだが、魯迅の方が、よりコンパクトで読みやすい。

 従来の中国文学にはなかった口語体を大胆に取り入れた作品としても有名で、本篇は魯迅の処女作でもある。

 これはいずれ、ゴーゴリの『狂人日記』と比較し、紹介したいため、くわしいあらすじなどは記さない。そもそも、ここまで作品紹介するのに、相当の文量である。本稿を読んでいる酔狂な方も辟易であろう。

 ゴーゴリの『狂人日記』まで待てないという方は、記事としてできあがるまえに、ぜひ一度読んでみるとよいだろう。

 ゴーゴリの『狂人日記』は官僚制度を皮肉ったものだが、本篇は「大衆が個を殺す」深刻さを滑稽に扱った作品である。

 

総評

 なぜこの短編集が『名作』の入門書なのか。

 読みやすい、コンパクト、意義深い。

 たしかにそのとおりではあったが、前篇で語ったこういう要素は、ほかの作品にもあるのではないか。

 ましてや、「悲哀」が強く、まったくもって「愉快」がない分、好き嫌いが分かれるのではないか。

 本稿を読んでも、そういった疑念がぬぐい去れない方がいるかもしれない。

 たしかに本書は哀しみとブラックユーモアであふれた作品が多い。ほかに読みやすく、コンパクトで意義深い作品もないともいいきれない。だが、本書は読者を半ば強制的に「思考する」という行為に落としこんでくれる。「深刻なテーマを自分で考える」良さを見出してくれる。そういった《純文学本来の愉しみ》へ、懇切丁寧に導いてくれるのだ。これほどまでのクオリティを保ちつつ、“過度に語らない案内書”はない。

 きっと、小説嫌いの人間も本書を読んでみれば、「小説のもつ良さ」、「小説本来の愉しみ」に自ずから気づくはずだ。この、“小説が気付かせる”のではなくて“自ずから気づく”という点を考慮して、《入門書》とした。