ネコノツメ編纂室

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魯迅著「故郷/阿Q正伝」 前篇

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・内容 10

・読みやすさ 10

・おもしろさ 3

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:『名作』の入門書を探している方

 

  

 世界文学にはさまざまな名作がある。

 ドストエフスキーの『罪と罰』がそうであるし、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』がそうだ、もちろんヘルマン・ヘッセの『車輪の下』もそうであるし、ジャン=ジャック・ルソーの『告白』、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』なんかもそうだ……とにかくあげ出したらキリがない。数多くある。けれど、それぞれにクセがあり、ひとによっては読むのに難解なものもあれば、つまらなく感じるものもある。名作とは謳われているが、「え?これってどこがいいの?」とひそかに思ってしまう作品も少なからずあるだろう。

 これは、必ずしも名作が「万人向けではない」からだ。テーマに普遍性があり、世界中の人間に通ずるからこそ、名作なんであって、万人が親しみやすい(読みやすい)かどうかは二の次なのである。

 では、「名作」に読みやすさを求めてはいけないのか。物好きな者だけが「名作」を楽しむ資格があるのか。いやいや、そんなことはない。力まずとも、読みやすい「名作」はちゃんとある。誰でも容易に読める「名作」だ。それが本書『故郷/阿Q正伝』である。

 本書は、文学好きを公言するには必ず読まなければならない作品であり、また「文学とは何ぞや」を知るにあたって格好の書物である。

 本書の魅力を最大限にわかりやすく伝えるのならば、「単純明快、意味深長!」。

 この一言に尽きる。これ以上の言葉はない。

 とにかく、読みやすく、シンプル、さらにコンパクト、それでいて深い意義が隠された物語が詰まっている。

 さて、本書の著者、魯迅についての有名なエピソードは後篇に記すこととして……本書を紹介するにあたって、どういった形式で書き出すか非常に悩んだ。

 なにせ、この光文社から出ている短篇集は、『吶喊』なる小説短篇集と『朝花夕拾』なるエッセイ短篇集を組み合わせたものであり、なおかつ付録としてもう三篇追加されているので、どこでどう区切って記していけばよいか迷った。

 並びが秀逸なので、順番どおりに解説していき、『朝花夕拾』の途中で前篇を区切ろうとも考えたが、どうも見栄えが悪い。なので、並びを無視し、前篇に『朝花夕拾』と付録の二篇『自序』と『兎と猫』、後篇に『吶喊』と付録一篇『狂人日記』を収録することとした。

 

 

朝花夕拾

  前記にあるように、エッセイ短篇集。

 魯迅の人柄が知れる良い作品が揃っている。

 どれも読みやすく、内容もむずかしいものではない。気軽に彼の生まれ育った背景がうかがえ、これさえ読めば「魯迅という小説家を知ってマス!」と豪語してもウソにはならないだろう。

 収録されたエッセイはどれも20ページに満たないものばかりなので、本稿ではあらすじを控えた。ページ数、また、いつ頃の話か、どういった読み味か、だけを記している。中身を知りたければ、ぜひ作品そのものに触れることを強くおすすめする。とても短いものばかりなので、さらっと読めてしまうはずだ。

 本稿をとおして、読みたいものだけを選びとるもよし、あるいは全体にただよう雰囲気を把握して興味をもつもよし。ただ、付け加えるならば、このエッセイをしっかり読みこめば、彼の小説がより深く愉しめることだけは、はっきりと断言しておこう。

 

お長と『山海経

 魯迅は中国出身の小説家。多くの者が貧困に浸っているなかで、彼はかなり裕福な家庭のもとで育った。しかし、金持ちの子供によく見受けられる道楽はなく、厳しく育てられてきたようだ。そのためか、子供ながら、「人間」というものを冷静に観察しうる眼をもっていて“善悪”で人を判断しない側面をもっていたように感じられる。

 本篇は、幼少期の彼の世話をつとめた、召使のおばさんを主に扱った話である。おばさんにまつわる思い出話といっていいだろう。彼女の印象的なエピソードを並べたて、どこか郷愁的に語っている。もちろん、ここで述べられている内容はどれも“良い話”ばかりではない。人間臭さが際立つものばかりだ。図々しく、偏った考えをもつおばさんの特徴を列挙したあとに、最後にほんのりと優しい小話がはいっている。

 「どんな人間でも、かならず良いところがある」

 まさにこの言葉をあらわしたような内容だ。

 あくまでエッセイなので、深い意義が秘められているわけではないが、それでもなお、味わい深く芳醇である。全10ページ。

 

百草園から三味書屋へ

 全9ページ。

 本篇は、魯迅の少年のときの話。

 前篇で描かれたおばさんや、親友の父、先生なんかも登場する。

  少年期の無邪気で好奇心にあふれた日々が色鮮やかに語られた内容だ。

 自分の家の庭でさまざまな虫や鳥と戯れ、先生の家(日本でいうところの寺子屋みたいなものか)では授業をろくに聞かず、落書きに精を出す。

 とにかく、のどかな陽気、明るい希望が全面的に感じられる。

 読者にとっては、こどもの頃を懐かしがらずにはいられなくなるだろう。

 魯迅の作品のなかでは、やや異質ともいうべき、明朗さが光るエッセイ。

 

父の病

 これも『百草園から三味書屋へ』と同じく、全9ページ。

 父が病に伏し、亡くなるまでの過程をごくあっさりと述べたてた作品である。

 本篇の末に語られる、救いの手が断たれた父を生かすか、殺すかで悩む息子の心情は誰しもが見過ごせるものではないはず。早死にすることがないかぎり、肉親の死というものには必ず立ち会わなければならない。そのときの心情を簡素に、それでいて冷静に書きだした本作品は、どのような方であれ、一読の価値アリだ。

  どことなく魯迅の小説作品に見受けられる、諷刺や皮肉が滲んだ内容だ。小説の趣が濃く香るエッセイ。大人向けといっていいだろう。ほろ苦味を読者に与える。

 

追想断片

 どこか妖しい雰囲気をもつ衍おばさんの特徴からはじまり、父が死んだ後の生活、そして日本へ渡るまえのエピソードが流れるように語られている。

 本篇は「共感する内容」というよりも、魯迅の生きた当時の背景や彼の内面をよく知るためのエッセイと判断してもらってよいだろう。

  序文では衍おばさんがよく登場し、彼女の人物性に焦点が当てられてはいるが、中盤以降は主に、魯迅が入学した、南京にある学費不要学校の話だ。

 本篇は箸休め、「つなぎ」として読むのによい作品かと思われる。全14ページ。とくに頭をひねることなく、流れに従ってすらすらと読むのが吉。

 

藤野先生

 魯迅は一時、日本の仙台の医学専門学校に留学していたときがある。

 その当時にお世話になった藤野先生にまつわる思い出話。

 藤野先生というのは、衣服に頓着せず、やや風変わり。学生たちにからかわれるような、地味な解剖学の先生であった。

 魯迅は学校をよくサボり、遊んでいたものの、先生はそんな彼を見捨てることなく、熱心に個別指導までしていた。おかげで落第にはならずには済んだものの、授業の一環でみせられた中国人の処刑映像に衝撃を受け、魯迅は学校を辞める意志を固めてしまう。そして、先生との別れ。ここでのやり取りはぜひ作品を読んで味わってほしい。とてもたまらないものだ。心にじんわりと沁みる。

 かつて恩師と呼べるような人がいる読者はつい、感動してしまう作品であろう。全10ページ。

  本篇に追記しておくと、魯迅は『藤野先生』を書きあげることによってふたたび藤野先生に会うことを期待したそうだが、それは叶わなかった。なんでも、藤野先生は専門学校の教官を辞めた後、田舎の医者をやっており、魯迅の恩師であることは身内にも固く口止めし、公には出なかったらしい。魯迅の作品によって、無名だった藤野先生は脚光をあび、北京の医科大学から招かれるもそれを辞退。先生はそのまま田舎の医者をつづけ、73歳に往診先で亡くなったそうである。

 

范愛農

 魯迅の交友記。エッセイ集のなかではもっとも長い全16ページ。

 范愛農という友人について、深く語られている。

 しかし、小説と合わせて読めばわかるが、この人物は魯迅の創作活動に多大な影響を与えており、彼の代表作の小説にも范愛農なる男の影がただよう登場人物があらわれている。

 本篇を紐解いていくと自然に後篇に記す予定である、魯迅の代表作の解説もはじめなくてはならないため、くわしくは後篇にて記させていただく。

 書ける範囲で説明するなら、本篇はいわば、魯迅という小説家の「本質」に触れたい方は絶対に読まなければならないエッセイだ。これを読むか読まないかで、彼の小説の印象が相当変わることは間違いない。

 

付録

 

自序

 小説短編集『吶喊』のタイトルの由来を綴りつつ、文筆活動における苦悩を赤裸々に語った内容である。扱いとしては、こちらもエッセイという見方でよいと考える。

 本篇は文筆活動を主に扱った内容とはいえ、「物書きになる覚悟」をあらわした作品かといわれれば、かならずしもそうではない。当時の中国の様子が多大に影響しているため、昨今のような「書きたいから書く!」といったような、あるいは「なにもできないから文学で食っていくしかない」といったような状況ではなかった。

 「文学」そのものが薄らとタブー視されていた。

 もしかしたら殺されるかもしれない。

 作品を残したところで何の意味もないし、金にもならない。

 それを知っていながらあえてやる。

 前提として、覚悟の度量が違うのである。「破滅する覚悟」といったほうがふさわしい。

 自分には何の得にもならないが、それでもなお「文学をやる意味」を説いた、秀逸かつたいへんに価値ある内容だ。全9ページという短さながら、意義深い。

 “小説家”とは一体どういう人種なのか、はたまたこれから小説家になろうかなと考えている方には必読の書である。

 ウィキペディアでも、本篇の一部が掲載されているので、本稿で物足りなければ、検索して読んでみるのもいいだろう。

 

兎と猫

 全8ページの小説作品。

  光文社に収録された本篇は魯迅自らが日本語訳したものである。そのため、いくつか誤字がそのまま掲載されているめずらしい作品だ。

 内容は、庭で放し飼いしているウサギがあるとき、子を産むも、その姿はなく、語り手である「私」をふくめ、私の母、ウサギを可愛がる奥さんは不審に思う。ひとえに親ウサギが偏った乳やりをしたせいであり、また黒猫が取って食ったせいもあるのではないかと考える。そして、二度目の出産後には奥さんがウサギたちを引き取り、管轄のもとに親ウサギに子育てをさせ、「私」は黒猫退治に乗り出すといったものだ。

 童話風であり、ありふれた読み方をすれば、ちょっとした小話で終わってしまう。

 しかし、巧みに隠喩を操る魯迅のことであるから、ただ単にありのままの「ウサギ」、ありのままの「猫」というわけではなかろう。辛亥革命が起こっていたような

ご時世である。

 個人的な見解では、「ウサギ」が「下級層のひとびと」であり、「黒猫」を「革命家」であるように考える。ポイントとしては、「下級層のひとびと」は弱い立場であり、人口が多い(ウサギの生殖能力を絡めて)といったところと、「革命家」は、その「下級層のひとびと」をつけ狙い、ひっそりと食い物にする(革命に成功した暁には、みんなが平等に暮らせるとのたまわっていたにもかかわらず、実際、革命後は下級層のひとびとをより苦しめるだけの結果となった)といったところだ。

 こうして改めて読んでみると、子を餓死させてしまう「ウサギ」と、「私」に殺されようとしている「黒猫」は深刻な響きをもって読めるはず。

 「中国内の階級」をそれぞれ小動物に喩え、「神に近い存在」として、うまい具合に人間である「私」、母、奥さんを登場させることで、「共産主義」そのものを皮肉る。

 凝った見方をすると、たちまち、おそろしいほどの冴えを誇る諷刺劇に変貌する『兎と猫』は、十分に魯迅らしさがにじみ出ている作品だ。

 彼の作品にはそれぞれ特徴が三つあり、「悲哀」、「滑稽」、「隠喩」がある。

 本篇は「隠喩」が突出した作品といえる。だが、『兎と猫』は秀作でもなければ、傑作でもない。後篇に登場する小説のほうが遥かに優れている。『兎と猫』は、あくまで魯迅の「側面」として留めておくぐらいがふさわしい作品だ。

 

 

 

後篇へつづく……