ネコノツメ編纂室

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鳴海章著「狼の血」《絶版》

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・内容 3

・読みやすさ 6

・おもしろさ 7

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:鬱屈とした生活を送っている方

 

 

 大衆文学というのは流動が激しい。

 ブレイクすれば、増刷増刷……

 パッとしなければ、すぐに絶版、とシビアな世界である。

 もちろん、大ヒットしたからといってそれが傑作に結びつくわけはなく、鳴かず飛ばずだからといってそれが駄作に結びつくわけでもない。

 本書『狼の血』の売行はそこまでよくなかったようである。

 だが、内容は必ずしも捨てちゃってよいものではないと判断したため、本稿にて取り上げた。

 

 著者、鳴海章は2015年2月現在も生きておられる、大衆作家。

 サスペンスを中心に、近年では警察小説にも力をいれているということである。

 いってしまえば、ドラマ化、映画化しやすい、大人向けのエンターテインメント小説の書き手だ。とくに男臭い娯楽小説が好きな方は、少なからず彼の「航空もの」は知っているかもしれない。

 そんな彼の作品群と並べたら、“異色”といえるのが『狼の血』である。

 娯楽小説で「狼」がつくタイトルは大抵、ノワール作品(暗黒小説。犯罪者が主人公を演じる作品のこと)なのだが、本書も例にもれず、ノワールである。だが、正直いって、特有の「男らしさ」や「血肉湧き躍る昂奮」はない。ましてや、大衆小説であるにもかかわらず、爽快感がなければ、面白さもさほどない。妙に「純文学特有の愉しみ」が香ってくる作品である。なので、読み方を間違えれば、「ツマラナイ」の一言で済んでしまう“へん”な娯楽小説だ。娯楽小説そのものの見方をすれば駄作といった意見も否定はできない。

 少々内容説明が遅くなったが、本篇は全712ページの大長篇小説。かなり読むのに時間を有する。ただし、根はエンターテインメント。「読み解く」ことを求めないため、「読む」という行為に慣れた方はすらすらと読めるだろう。

 今回は主人公が「ごく平凡なサラリーマン」ということで、ユニークな試みとして映画作品『狼の死刑宣告』と『フォーリング・ダウン』の二本を絡めて、話を進めていく。

 まず、それぞれ「一介のサラリーマン」が“狂気”に堕ちこんでいくのだが、主人公の身辺状況および、その経緯を簡単に述べる。

 はじめに『狼の血』。主人公、山本甲介はプラスチック製品を扱う会社の総務部総務課に勤めている、どこにでもいるような独身男性。入社して六年、出世の見込みもなく、会社に不平を抱え、仕事に不満をもち、女に欲情してはたまに風俗で欲求を吐き出す程度の人物だ。この“どこにでもいるような”生きがいを見出せない男があるとき、悪友の訪問を受ける。ヤクザになっていた彼とは何事もなく、他愛ない昔話に花を咲かせ、一晩泊らせるのであったが、翌日、彼の姿はなく、部屋に置かれた黒いバッグ。中身は、八十九枚の一万円札と黒光りする拳銃。この「富と暴力」が山本を“狂気”の道へ導いていく。

 『狼の死刑宣告』の主人公、ニック・フューリーは投資会社に勤めるサラリーマン。妻がいて、息子が二人いる。家庭での関係は良好。比較的恵まれた男だ。しかし、ある日、息子(長男。将来有望のスポーツ青年)と立ち寄ったガソリンスタンドで殺人事件が起こる。殺されたのは、ガソリンスタンドの店主とニックの息子。ニックの目の前で息子は惨殺されるのであった。犯人は捕まるものの、刑期は五年。反省する様子もなく、終始ふざけた態度を取った犯罪者の青年に対し、ニックはあえて証言せずに釈放させる。そして、自らの手で犯人を殺害するのであった。だが、その犯人はギャングのボスの弟。弟を殺されたボスは憤怒に駆られ、ニックを殺そうと動き出す。そこから復讐の連鎖に巻き込まれ、ニックは“狂気”へと踏み込んでいく。

 『フォーリング・ダウン』の主人公、ウィリアム・フォスターは“狂気”までの過程がいたってシンプルである。真夏の太陽のもと、大渋滞するハイウェイ。エアコンや窓の故障、さらには車内にいるハエの羽音に、長年蓄積された怒りが爆発し、「家に帰る!」とさけび、車から降りる。そこから「不満」をストレートに「社会」にぶつけていくといった“狂気”に駆られていく流れだ。ちなみに、上二作品にくらべ、ウィリアムは離婚歴があり、愛娘とも離れ離れ、長年勤めあげた国防産業からもクビなっているという、スタートの状態では、もっとも惨めな男である。

 三人に共通しているのは、“狂気”に陥ることで状況が「上向き」にならないところもあるだろう。むしろ、悪いほうへと転げ落ち、そこから好転することもなく、結末へと進んでしまっている。

 ただ、『狼の死刑宣告』と『フォーリング・ダウン』は極端だ。

 それは時間制限のある映画作品だからということもあるだろうし、なにより観る側に「飽き」を来させないために緩急のつけ方に趣向がこらされているからというのもある。しかしふたつは、物語の推移が類似しているわけではなく、どちらかといえば両極にある。前者は、物語が進んでいく過程で「大事なもの」を失っていき、途中で生き残った息子に復讐をやめるよう頼まれるものの、自ら“狂気”に歩み寄って「サラリーマン」から「鬼」へと化す。後者は、社会から拒絶され、「独り」となってしまったウィリアムが、かつて溶けこんでいた社会に戻ろうと不器用にもがき、「失業者」から「社会人」へと奮闘する。それが周りの者から“狂気”に蝕まれた者として映る。つまり、ウィリアムは進んで“狂気”へ至ろうとはしていない。

 では、本書『狼の血』の山本はどうかというと、まさにニックとウィリアムの中間に位置する存在であるといえる。

 雑用ばかりではあるものの、山本の暮し向きはごく平凡なもので、多くのサラリーマンが体験している生活だ。とくにつらい作業を強要されているわけでもなければ、過酷な労働環境に身をやつしているわけでもない。「普通の企業、普通の仕事」の只中にいる。山本は、その「変わり映えのしない日常」に嫌気が差し、不満を抱えている、けれど自分から変えようとは思わない、どこにでもいる人間なのだ。ニックのように親しい者が殺されるわけでもないし、ウィリアムのように失業するわけでもない。あくまで「普通」。偶然が積み重なって「たまたま狂った」。ここが本書の最大の魅力であり、ミソである。

 さて、話を続けて、ニックやウィリアムには明確な“敵”がいて、すすむべき“道”が用意されている。

 ニックの場合、最終的な敵はギャングのボスであり、復讐を遂げることが“狂気の果て”としてある。

 一方で、ウィリアムの場合、最終的な敵は刑事(物語の途中から登場。妻に罵られ、職場の連中にも馬鹿にされている。そして定年間近だが、健気に生きているウィリアムとは境遇を同じくしても、性格が正反対のおじさん)となり、自分の救済が“狂気の果て”にある。

 どちらも「外」に答えを求め、進行している物語だ。

 けれど、山本には“敵”が存在しなく、すすむべき“道”もない。

 なぜならば、山本だけが《内的狂気》へと向かっているからだ。

 ニックやウィリアムとちがい、彼だけが「サラリーマンとしての生活」と「無秩序の生活」に揺れ、ふらふらとさまよう。どうしよう、どうしようと慌てているうちに、流れで犯罪に手を染めてしまうのだ。これはとてもリアリティのある構成である。

 人間だれしも、ドラマチックに人生を彩ることはできないだろう。くだらないミス、優柔不断、みじめな出来事、気の迷い。ドラマチックな生涯を送る人間のほうがめずらしい。山本は上記で述べたように「普通」だ。そのため、「普通」らしく、葛藤し、気おくれし、おびえ、動揺し、憔悴し、諦念するのである。目標もなく、ただむやみに拳銃で“当てのない暴力”を他者にふるうだけなのである。その過程で、答えを「内」に求め、暗い展開へと突き進んでいく。

 この点において、同じく「サラリーマン」と「狂気に至る」という要素が含まれていながら、確実に『狼の死刑宣告』や『フォーリング・ダウン』と逸した作品であることが伝わるように思う。くわえて『狼の血』のもつ注目すべき点は、“狂気”すら「味気ない」ところである。劇的に変化するわけでもなく、淡々と人を殺すのだ。殺人が日常に組み込まれ、その日常を山本は過ごすである。どこにでもいるような一般人が、殺人行為という《非日常性》を《日常》へ持ちこむ流れは他に類がないといっていい。これは物語の中盤まで長々と「サラリーマンとしての退屈な生活」を描いていることが功を奏しているのだろう。おかげで中盤以降からの山本の行動が痛々しく、また「普通」に染まりきってしまった男の惨めさが、異様に身近なものとして感じ取れてしまう。ほかの二作品にくらべ、純文学らしさが滲んだ陰鬱感の際立つ作品といえる。

 結末であるが、いずれも「良い結末」とはいえない、哀しいものだ。

 だが、哀しみの結末は三者三様で、『狼の死刑宣告』は「空虚な哀しみ」、『フォーリング・ダウン』は「やりきれない哀しみ」、『狼の血』は「胸が苦しくなるような哀しみ」を、読者にそれぞれ与えるだろう。

 どれかひとつに手をつけるか、あるいはどれを手始めに観る(読む)かは委ねる。とくにおすすめする順序はない。しかし、三作品ともに、隠れた秀作であることは明言しておく。哀しいものではあるが、終わったあと、心がすーっとなり、ため息をつくはず。日頃会社にストレスを感じている方、鬱屈としている方にとってはこれ以上、身に迫ってくる単純明快にして強烈な作品はないだろう。

 あくまで本稿では物語の詳細な出来事は綴らなかった。これは、純文学とはちがい、大衆文学であり、物語すべてが「愉しみ」そのものだからである。現状から脱しようと“狂気”に染まる主人公たちの生き様を味わいたい方はぜひ本篇を読んでみるべし。