ネコノツメ編纂室

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ジャン・ジュネ著「泥棒日記」

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・内容 10

・読みやすさ 1

・おもしろさ 1

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:芸術の極限をのぞき見たい方

 

 

 『泥棒日記』は上級者向けの小説だ。

 《極限》をあらわした小説であるため、本書は読む者に容赦なく相当の気力と根気を要求してくる。読むこと自体がつらく、当然のことながら、一読しただけではさっぱり意味がわからないであろう。すべてを理解するには、それこそ“研究”といってもいいほどの労力と忍耐を費やさなければならない。

 これから小説を読もう、あるいは、小説を読むことが面白く感じはじめた方には絶対におすすめしない。かなりの読書好きですら読み終えるのにたいへん苦労するからだ。しかしながら、《芸術の極限》を味わうには本書しかないのも事実。

 このことを呑みこんだうえで、本稿を読み進めていってほしい。

 

 著者は、「二十世紀文学の怪物」と称された、ジャン・ジュネ

 彼はフランス出身。

 生れたときから、父の存在はなく、生後七ヶ月にして、母も彼を捨てた。

 養子として木こりの夫婦に引き取られる。しかし、成長するとともに、彼は次第に犯罪に手を染めるようになり、やがて感化院(日本でいうところの少年院)に入れられる。服役後、外国人部隊に入隊するも、脱走。刑務所にぶちこまれる三十歳まで、犯罪と放浪の生活を送っていた人物だ。犯罪歴で、公になっているのだけでも、窃盗、猥褻、男娼、麻薬密売などがある。もはや、アウトロー小説の主人公として申し分ない経歴の持ち主だ。実際、ボードレール(フランスの詩人、評論家)の詩集『悪の華』の冒頭部分に描かれた詩の生い立ちに酷似している。

 とにかく、あらゆる小説家の生涯を比べてみても、彼ほど過酷かつ波乱に満ちた生き方をした人物はそういないだろう。

 彼は投獄後に文学活動をはじめている。処女作は詩。

 創作はじめから、すでに才能の片鱗があらわれていたようで、彼の詩を読んだジャン・コクトー(芸術において多方面に活躍した、フランス芸術界の大御所)はこれを賞賛。そこから自伝的要素の強い……というよりも、激しい小説が数々生み出されるごとに、世に輩出されるようになった。

 彼の創作の原動力は《死》。

 刑務所でのたれ死することを潔く認め、それに向かって命の炎を燃やして文学に打ち込んでいた。「死ぬつもりで書く」のではなく、「死ぬから書く」といった壮絶な考えをもとに、小説に魂を注ぎ込んでいたのだ。そのため、「書く」という行為にすべてを捧げていた彼は、自分の作品を絶賛している文学者をどこか皮肉な目でみていたようである。実際、彼の最初の読者であるジャン・コクトーとは、のちに絶交している。

 そんな命を賭けた数々の作品のなかでも、本書『泥棒日記』は、彼が《最期》と定めた小説である。これを書き終えたらもうこの世に未練はない、とジュネが強烈に想った「遺書」だ。

 内容は……表現のしようがない。

 なぜなら、本書は《小説》の概念をぶち壊した小説なのだ。

 ふつう、小説というのは、序破急、起承転結という「決まった流れ」がある。

 なにもない関係から特別な関係に発展したり、ある出来事をとおして成長したり、平穏な日常から奇妙な世界へ没入したり、最愛の人を亡くすも復讐を遂げたり、と無から有が生じるようになっている。つまり、「0→1」となるのが“暗黙の了解”として小説にはある。だが、この作品には前提としての“それ”がない。

 「1→1」の小説なのだ。はじめから終わっており、おわりから始まっている。かと思えば、はじめから始まっているようで、おわりに終わっているようでもある。

 時間軸がまるで存在していないのだ。流れがない。無数のごつごつとした「話」が置かれており、彼の類稀なる詩的表現と、「悪」に対する持論がそれらをかろうじて繋ぎとめている。

 いわば、論文と小説が複雑怪奇に、そして繊細に溶けこんだ「究極の私小説」であり、普通であれば破綻してしまうアクロバティックすぎる倒錯的作品なのだ。

 これはジャン・ジュネだからこそ、成しえた“極北”であろう。いくら経験を詰んだ物書きでもこういった作品を書くことは到底できない。書こうとしても、粗末なものになってしまうだろう。素人ならば、なおさらである。

 ここで、「彼にはほかの人には及ばぬ才能があったから、この異常な作品が書けた」というつもりはない。では、なぜ書けたのか。

 それは、前述にもあるように《死》が原動力だったからだと推測する。

 「死ぬほど考えた」、「死ぬぐらい努力した」の次元ではないのである。

 純粋な《死》が彼の前にあって、それが思考に《限界》をなくしてしまったのではないかと個人的には考えている。すなわち、「人間としての考え」、「人間らしい考え」を捨て去った向こう側に自らをもっていって創作してしまったのではないか。《死》が目前に迫っているなかで、ヒトであることを忘れ、強烈に《生》の執念を発揮したからこそ、書けたといえる。恐ろしいのは、もしかしたら回避できるかもしれない《死》に無抵抗で、臆することなく歩み寄り、淡々と《生》を吟味しているところだ。

 「究極の私小説」と評したとおり、作品は全篇にわたって、ひたすらに「自分のこと」しか描かれていない。

 自分の悪への信奉、自分の悪にたいする考え、自分の甘美な思い出、自分の惨めな告白……。

 正直いって内容的にはジュネの「自己満足小説」である。

 しかし、多くの書物を読み漁った方は、想像を絶する凄さにただただ笑ってしまうはず。他者のことをまるで無視した難解極まりない小説のくせに、読者を幻惑させ、陶酔した世界に溺れさせるのだ。表現も精緻を極めており、驚嘆や畏怖を通り越してもはや「呆れた笑い」しか出てこない。

 あらすじをあえて記すとなれば以下のようなものである。

  主人公……「わたし」。小悪党で、乞食じみた生活を送っている。荒々しくワイルドな男が好き。しかし、スティリターノにいいように翻弄されている。

 スティリターノ……軟派で二枚目の男。「わたし」を散々誘惑し、悪事から雑用まであらゆることをやらせる。ノンケ。狡猾な性格で、自らの手は染めないスマートな悪人。

 リュシアン……「わたし」の彼氏(?)。獣じみた男で、かなり荒々しい。筋骨隆々。肚が据わっている。大胆な悪事を平気で犯す。

 ロベール……コズルイ美少年。スティリターノの手下。基本的に女が好きだが、バイの気がある。

 この主要人物たちのまわりをジュネのもつ詩的表現が乱舞し、強烈な思索が縦横無尽に跋扈している。舞台は、悪者どもがひしめき合い、《濃密な友情》を交し合うフランスの汚れきった路地だ。登場人物はもちろんのことだが、彼ら四人だけでない。「わたし」の一時期同棲していた彼氏アルマンなんかも顔を出している。

 物語の雰囲気を伝えるなら、「とんでもなく饐えた臭いのする男の世界」ともいえるし、「薔薇の芳香がたちのぼる《悪》の美しい世界」ともいえよう。

 わかりやすく説明できる範囲はここまで。

 これ以上は読んで確かめてくださいとしかいえない。

 さらに、もう一歩読むかどうかの判断材料がほしい方にダメ押しで、作中に登場する、ジュネの「聖性」についての定義を抜き出しておく。

わたしが聖性とよぶのは、一つの状態ではなく、わたしをそこへ連れてゆく倫理的歩容のことなのだ。聖性とは一つの倫理の理想上の一点であり、わたしにはこの一点が見えないからそれについて語ることはできない。わたしがそれに近づくと、それは遠のいてしまう。わたしはそれを欲し、それを恐れる。このわたしの精神の歩容は愚かに見えるかもしれない。とはいえ、それは、苦しくはあるが歓ばしいのである。それはいわば気ちがい女なのだ。愚かにもそれは、スカートを捲りあげられて歓びの叫びをあげる、あのカロリーヌの姿に肖るのである。

  

  フランス文学は、なぜか読者を深く沈思させる小説が多い。

 それこそ、批評家が泣いて喜ぶような“考える余地”のある小説だ。

  なかでも、本書は屈指の難解度を誇っている。くだらなくも意義深いことに全思考を費やすのが好きだという方にはふさわしい小説だろう。じっくりと考えつくすことに至上の喜びをもたらしてくれるはずだ。