ネコノツメ編纂室

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安岡章太郎著「海辺の光景」 後篇

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・内容 9

・読みやすさ 9

・おもしろさ 3

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:虚無感の妙を味わいたい方

 

 

 前篇でちらっと登場した、“第三の新人”とは何ぞや。

 これを知ることによって、本稿を読んでくださってる方が、自分に合った小説を選ぶ際の大きな手助けとなるように思うので書いておこう。だが、なにもコムズカシイ言葉を駆使して、アアだコウだ、と文学好きにしかわからないような説明をするわけではないので安心を。だれでもわかるように解説していく。

 「小説」と一口にいっても、ひとによって思い浮かべる内容はさまざまだ。純文学、ミステリ、恋愛、アクション、怪奇、幻想……。もちろんのことであるが、無限といっていい可能性が「小説」には秘められている。そのなかから、美を求めてみよう、小説らしい小説を目指してみよう、人間の真実を描こう、といったふうに志を同じくした物書きたちが集い、ひとつの表現、文体、テーマを洗練させようと、うまれたのが「文学派閥」である。

 これは、国語の授業で誰もが習ったはず。いわゆる文学史に登場する自然主義白樺派耽美派プロレタリア文学などといったものがそれにあたる。

 “第三の新人”もその「文学派閥」のひとつ。

 どういったものを目指した「派閥」なのかというと、実はなにも目指してはいない。しいていうならば、「もう、そういうのやめね?」と、気の抜けた体をなしていた派閥だ。かなりくだけた言葉をつかったが、これはなにも冗談ではない。

 当時、文学といえば、とにかく高尚すぎた。戦争の影響もあってか、なにか極限のものに触れなければ満足できないといったように、小説家たちは声高に「ゲイジュツ! ゲイジュツ!」と叫ぶ者もいれば、一方で「世の中の真理を掴み取るんだ! 思想小説こそ至高!」と喚く者もいた。つまり、みんな額に青筋立てて難しい単語を連発し、小説の水準を高めてしまったのである。「なンだ、べつにいいじゃん。クオリティがあがったのはいいことじゃないか」と思うかもしれない。けれど、これがいけない。たしかに“質”は格段にあがった。でも、その高尚な純文学作品を読もうと意気込むひとが果たしてどれぐらいいるだろうか。大衆小説と比べると少ないはずだ。無理もない。面白くないのだから。よろこんで読むのは、物好きな文学青年ぐらいだろう。

 そんななかで、ある程度の域にまで達してしまった文学界から馬鹿にされながらも、健気に大衆に向けて「親しみやすい純文学」を示したのが“第三の新人”(実はこの“第三の新人”という名は、とある批評家につけられた。「おまえらはいつまで経ってもプロになれない三流アマチュアだ」といった意味が含まれた蔑称)である。むずかしくない文章、ダメ人間エピソード、ユーモアをふんだんに詰めこんだ彼らは「純文学」を苦手とする読者のこころをやさしくほぐしてくれるはずだ。

 

 さて、前篇では四篇中三篇を、結末もふくめた全ての内容を述べてから簡単な感想を書いてしまった。後篇では終わりの部分を伏せつつ、記していこう。

 

ジングルベル

 『愛玩』よりも短い16ページの短篇。もはや掌篇といってもいいような文量である。

 内容としては、徹夜で麻雀をやり、彼女と待ち合わせていることをふと思い出し、時間には間に合わないとわかっていても、「もしかしたら……」と淡い期待をして「彼女の待つ場所」へ向かう。この待ち合わせ場所までの道のりを描いているだけである。

 それだけといってしまえば、それだけなのではあるが、侮ってはいけない。これにもまた、『雨』や『愛玩』にある《へんな余韻》が宿っている。この《へんな余韻》とは何なのか。それはあえて言葉にするなら“虚無感”といえるだろう。やや遠回りした書き方をしたのには訳があって、なにも読者に“虚無感”をみせる、与える作品ではないからだ。どちらかというと、この感覚は、意図せずして「読者が味わってしまう」感覚なのである。そのため、一概に虚無感といい切ることができない。

 安岡作品の最大の特徴は、読者を、唖然、茫然、愕然といった状況にさらりと落とし込んでしまうところにある。驚きの種類とはしては「ぬか喜び」に近い。その一種の“透明な驚き”をこころゆくままに愉しめる方であれば、安岡章太郎の作品は総じて合っているといえよう。

 本篇はクリスマスに男がひとり、曖昧な恋人に思いを馳せて目的地に赴くというストーリーでありながら、滑稽な要素がつよく、“驚き”に向かって進行している物語ともいえる。

 だが、安岡章太郎の生い立ちを仔細に知った方ならば、なんとも悲哀にみちた掌篇であることがわかるように思う。脊椎カリエスという病気で満足に外へ出ることができず、蒲団で寝ているばかりの日々。《空想の彼女》を必死に追い求め、すがろうとする心が垣間見れる。

 かつて夢を抱いていた方、最愛のひとがいた方にはしんみりと心にくるものがあるだろう。“人生の苦み”を心地好く感じられるようになったひとにこそ、ふさわしい一篇。

 

 安岡章太郎の真骨頂作品。

 読書での“虚無感”を強烈に味わいたいならば、この作品にかぎる。安岡作品のなかでも、最も拍子抜けしてしまう本作。

 耳の中に蛾が入りこんでしまい、追い出そうと頑張ってみても出てこない。不安に駆られるものの、次第にどうでもいいやといった気分になり、主人公の「私」は蛾がいることに慣れてしまう。やがて、いつまでも耳の中にいる蛾に奇妙な愛着感が湧き出すが……。

 とてもくだらない話である。読み終えた頃にはきっと、あまりの結末にポカーンとしてしまうだろう。まさに主人公の「私」と同じ感覚になること間違いナシである。

 安岡作品といえば、『ジングルベル』で述べたように、いずれの作品も“虚無感”のようなものを読者に想起させるのが特徴だが、本篇が一番だろう。こみいった事情がなく、蛾が耳に入ったという単純明快な話が“驚き”を、より一層引き立たせている。

 これといった細かな着目点はないが、誰が読んでも「え!?」となる結末は、ぜひとも味わってみるべきだ。小説、とくに純文学でもこういったものがあるのかと視野が広がるはずである。「衝撃を受ける」作品は星の数ほどあるが、ここまで見事に「拍子抜けさせる」作品は少ないだろう。世界の文学を見渡してみても、稀な作品である。

 

海辺の光景

 表題作。くわえて、新潮文庫では短篇集のはじめを飾っている中篇小説。

 これは、どこから料理すべきか、非常に悩む作品である。ひとつ、いえるとすれば、『海辺の光景』は素晴らしい。この一言に尽きる。

 微細に書くと、途方もないことになるので、ほどほどに要点をまとめあげて記していくが、まずもって、本篇はいままでの短篇とはちがい、好き嫌いがはっきり分かれる作品であることをここにはっきりと宣言しよう。なぜならば、大々的に「母の死」を取り上げているからだ。読みようによっては、残酷とも取れる内容だ。実際に肉親を亡くして心に傷がある方は読むのを避けた方がよいだろう。

 さて、この作品は本書のなかでもっとも長い作品であり、文学史上における「ひとつの極点に達した」作品でもある。

 テーマはない。「生きることとはなにか」、「死ぬこととはなにか」を意識しているわけでもなければ、「母の大切さ」、「家族のありがたみ」を訴えかけているわけでもない。《死》という出来事をとりあげておきながら、「なにもない」のだ。

 これはとてもすごいことである。どうしても「芸術家」は、創作する過程で、重いテーマを深刻に語ってしまうのは当たり前のことであり、それが常である。読者や鑑賞者もまた、それを求めている。しかし、それを一切無視し、淡々と母が衰弱し、死んでいく描写を冷静な目で見つめ、どことなく滑稽な様子で描いている。

 こんな物語はほかに類がなく、安岡章太郎という物書きの「凄み」を感じる。「当たり前」を平然と裏切ったその姿は、もはや「凄惨」といっても過言ではない。

 さらに、この作品のもつ恐ろしさは、《母の死》をとおして、読者に“虚無感”を超え、奇妙な爽快感、独特の清涼感を感じさせてしまうところだ。悲しみなどまるでないのである。

 “死んでしまった”ではなく“終わってしまった”と感じる主人公「信太郎」と読者が同じ感覚に陥ってしまう物語の導き方は表現のしようがない。ただただ、溜息が出るばかりだ。

 「安岡章太郎といえばやはり『遁走』がいい」

 「『流離譚』こそ傑作だ」

 「いやいや『私説聊斎志異』だろう」

 と、作品を数多く読んだ方は意見が割れるように思う。

 しかし、シンプルで、なおかつ誰に対しても安岡のもつ「恐ろしさ」を感じさせる作品は本篇しかないだろう。『海辺の光景』はなにも、彼のなかでの最高傑作ではない。日本文学のなかでも「新たな可能性」を示した“影の薄い”傑作である。

 さいごに、あらすじを綴る。

 母の危篤の報を聞き、信太郎は父と共に、病院へ向かうところからはじまる。一年前、母を騙して病院へ連れて行ったことを思い出しつつ、タクシーに揺られていく。

 病院では、老毟性痴呆症を患い、息子の顔もわからなくなった死にかけの母。息絶え絶えでギリギリ生きている母を必死に揺り起こそうとする看護師の姿にニヤついてしまう信太郎。母の病室を離れ、とりあえず容態が安定するまで病院にいることに決めるふたり。

 そこから母の出生や、危篤の知らせを聞くまでの経緯を信太郎は回想し、病院でのささやかな出来事に思いを馳せる。父とのちぐはぐな関係、母の年齢を尋ねられて答えられなかったときの医者の表情。母の友人と名乗る盗癖のある中年女性との会話。そして、「息子はその母親であることだけで充分償っている」といった考え。淡々と日々が過ぎ、母の容態も安定してきたかに思えた。しかし、看護師が与えたオレンジジュースを喉につまらせ、呆気なく死んでしまう母。その死を間近でみた信太郎は親族の泣き声に耐えられなくなり、部屋を飛び出す。ぼんやりと病院の窓へ近付き、そこからみえる海を眺める。信太郎は“ある思い”を抱くのであった。

 万年安岡フリークの友人は『海辺の光景』を読んでこう言っていた。

 「母が死ぬことで、彼のなかでやっと“戦争”が終わったんだろうナ」

 安岡章太郎という物書きを愛してやまないからこその言葉だろう。こころに響いた感想のひとつである。

 

総評

 第二次世界大戦後の人々が抱いた「虚無」を見事に体感させる短篇集といえる。

 長らく戦争がつづき、戦争が当たり前、戦争に負けたら自分たち日本人はみんな死んでしまうのが当然とされてきたなかで、生き残ってしまった者たちの「呆気なさ」を浮き彫りにした作品群。

 作品の並び順としては、つながりを感じる『宿題』、『愛玩』、『海辺の光景』をはじめと真ん中とおわりに配置し、安岡作品でもイロモノ要素が強い『秘密』を二番目にした。『雨』、『愛玩』、『ジングルベル』、『蛾』、『海辺の光景』のならびは読者が抱く読後感を意識し、後ろの作品ほど“虚無感”が濃くなるように配慮した。このならびのほうがスムーズに読めるだろう。とくに『宿題』、『愛玩』ときて『海辺の光景』を読むと感慨も一入であること必至である。

 本書は、安岡章太郎の入門書として、また、“透明な驚き”をもよおさせる貴重な書として読める。従来味わったことのない読後感に親しみたい方や、自分の心の中で起こる「虚無」を愉しみたい方におすすめ。読もうかなとちょっとでも興味を抱いた方は、迷わずに読むべし。文章が非常にやさしいので、抵抗はないはずだ。誰でも読める。