ネコノツメ編纂室

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安岡章太郎著「海辺の光景」 前篇

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・内容 9

・読みやすさ 9

・おもしろさ 3

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:虚無感の妙を味わいたい方

 

 

 安岡章太郎が好きというわけではないが、彼には並々ならぬ思いがある。

 理由はさまざまだが、大きな要因としては、友人が万年安岡フリークで、会話でよくその名が挙がるからであろう。くわえて、「第三の新人」を代表する人物であるからというのもある。

 さて、どこから説明すべきか。安岡章太郎という物書きについてすこしばかり綴るか、それとも「第三の新人」に対して雑筆するか。いや、まずは安岡にしよう。

 

 昨今、“安岡章太郎”という物書きは知られなくなった気がする。「気がする」というのは世間に対する読み違えであって、もしかしたら、「まったく知られなくなった」のほうが正しいのかもしれない……せいぜい、“安岡”の単語をみたとしても、それは文学史上であって、実際に彼の作品に接する人間はどれほどのものか。

  たしかに地味な小説家であることは認める。彼の作風は、夏目漱石芥川龍之介のような崇高な匂いが感じられないし、太宰治三島由紀夫のような美の執念もなければ、大江健三郎村上春樹といった理詰めの触感もない。だが、それがなんだというのか。それだけが「文学」とは限るまい。百花繚乱の体を装い出した日本文学において、「おちこぼれがいたっていいンじゃないか」とひっそり語りかけてくるのが、安岡章太郎というひとりの物書きである。いわば、「読者を選ぶ作品」が頻出するなか、「読者が選ぶ作品」を書きつづけた貴重な人物だ。しかしながら、「おちこぼれ」といいつつ、彼もまた、《ひとつの極点に達した者》であることは間違いない。これは後篇に、くわしく記す。

 彼の作品に対する姿勢は一貫して「私小説」。自らの《劣等体験》をふんだんに盛り込んだ物語が特徴である。おちこぼれを書かせたら、彼以上の人間はいないのではないか、というほどだ。そして、文章が端正。凝った表現というものがなく、あくまで平易かつスタンダード。とにかく、読みやすく、飽きのこない読味なのだ。料理にたとえるなら、ダシ茶漬けだろうか。作るのも手間ではないし、さらさらと腹に流し込める、そのうえ何杯だってイケる味。こんな感じである。

 本書は短篇集であるため、例によって前後篇にわけた。それに、新潮文庫の短篇の並びがよろしくないため、文庫の並び順での紹介ではなく、こちらでよいと思われる短篇の並びにしてある。読む際は本稿に記した順で読んだほうがいいかもしれない。

 彼の生い立ちは……書くのを控えよう。

 私小説作家である以上、作品内でイヤというほど語られているので。

 どうしても、というのなら、「安岡らしい」と感じているエピソードをひとつ披露する。

 同じく小説家で友人の吉行淳之介という男がいた。彼は顔も良く、やさしい性格もあいまって、とにかくモテる。モテすぎて、モテすぎて、「モテるといえば吉行淳之介」というほどであった。なにせ、太ももや尻を触っても嫌な顔をされないのが当たり前のようなのだからトンデモない。それで「ホテルへいこう」といえば、ホイホイ女はついてくる(信憑性は定かではない)。

 あるとき、その吉行と安岡、そして女をふくめた三人は酒場で呑んでいた。散々その女とイチャついていた吉行はふと「このあと用事があるからぼくはお暇するとして、このコを持ち帰ってもいいよ」と安岡に提案する。なんでも、この女は夫がいるにもかかわらず、夜遊びがしたいとのこと。夫の存在に尻ごみするも、「今日、旦那は帰ってこないの」という言葉に俄然、勇気とやる気と、大いなる性欲が湧いてくる安岡。家につき、まさに事にとりかかろうとする瞬間に、まさかの夫帰宅。慌てたふたりは「ふ、不倫とかそんなんじゃないですよ~」となんとか取り繕い、そのごまかしは成功するのだが、その夜は夫をふくめた三人でなかよく(もちろん気まずい)寝るというシュールな展開へ。

 

宿題

  小学五年生の「僕」の話。

 「僕」の一家はもともと住居を転々としており、あるとき、東京へ引っ越してくる。当然のことながら小学校も、弘前から青山へ移る。田舎の学校から出てきた「僕」はさまざまな“違和”にぶつかり、空回りしていく。

 田舎の学校では、標準語で音読できる子が優等生とされる。だから、東京の学校でも「僕」は誇らしげに音読する。教室はシーンとなる。得意な気分であったが、実は四国弁と東北弁と植民地言葉のナマリのせいでシーンとなっていたのであった。

  ほかにも、田舎の学校ではなかった算術や理科の授業があって戸惑う。夏休みの長さに閉口する。どこか遠く、つまらない毎日。そんな毎日のなかで、風呂屋で一銭のお釣りをもらうはずが、番台の手違いで六銭のお釣りをもらってしまう。素直に誤りを番台に伝えず、そっくりそのまま使ってしまう「僕」。やがて、このささいな悪事にスリルを覚え、いつか事の顛末が発覚して怒られるかもしれないとヒヤヒヤしながら、一銭のお釣りをもらっても「おつりが足りない」といった様子を露にし、六銭のお釣りをもらいつづけるようになる。毎度、「僕」は風船ガムを買う。ある日、今度は母が間違えて十銭を「僕」にわたす。しかし、今度ばかりはお釣りは一銭。こんなときに番台は「僕」に疑りを抱いたようだった。「僕」は悪事のことがあり、つよく言い出せない。仕方なく、母に「僕らが、いつもあんまり泳ぐから今日は特別、十銭だってさ」と言い訳する。そのもくろみは成功し、母はこのかわいらしい嘘に笑い出し、上機嫌になる。夏休み終わり際。田舎の学校ではなかった、夏休みの宿題があることに気付く。山盛りの宿題を母に吐露し、必死に徹夜をして母子でとりかかる。答案に適当な答えを埋めていく。ひたすら文字数字を書き込む。朝にはすべて終わり、デタラメな宿題を教室で提出する。そこへ、先生に宿題をもってこなかった人は立つように命じられ、何人かの生徒が席を立つ。とくに先生は叱らず、席順の入れ替えだけで済んだ。「僕」は思う。「なんだ、宿題を出さなくても大したことじゃないじゃないか。宿題をやって来る奴は、足が弱くて立ち続けるのが苦手だからだろう」と。その日から「僕」は《立つ》ために学校へ行くようになる。だが、すこしずつ《立つ》というのは恥ずかしいことなのだ、ということを意識しはじめ、自分の身の置き所のなさにつらくなり、学校に行かなくなってしまう。家は出るものの、宿題をやらないのは悪いことだと言い聞かせ、昼のひっそりとした墓地で宿題をしようと試みる。しかし、気付けばひとり遊びに興じている。だらだらといつの間にか、《学校》ではなく、《墓地》に通うようになってしまい、ある日、他校の生徒にからかわれる。たまらなくなった「僕」は宿題はできないものだと白状し、惨めな気持ちで学校に行く。そこで待ち受けていたものは、嘲笑、嘲笑、嘲笑……。孤立した「僕」は学校から逃げ出す。次の日、学校の様子を尋ねる母に嘘をつき、学校に行けなくなったことを言い出せないまま、母の弁当が入ったランドセルを背負う。道すがら「戦争反対」のビラをみる。時は第二次世界大戦中。「僕」はこれを破くことによって大人に褒められ、いままでのことが全て許されないだろうか、と淋しく夢想する。

 『宿題』のあらすじはこんなようなものである。中篇とはいかないまでも、やや長めの短篇である。ただ、書き出したあらすじをみればわかるとおり、短篇であるにもかかわらず、内容が詰まっている。これでもなんとか縮めたほうではあるが、簡単に省略できない小噺が詰まっている。

 本篇は、ひとりの少年が不登校になっていく過程を描いたものだ。しかし、「精細」や「的確」に表現した、という評はふさわしくない。《不登校》をとおして、著者がなにかを読者に伝えるわけでもなく、深刻性もないからだ。それに、《不登校》に焦点をあてたわけではなく、《少年のこころ》に焦点をあてた結果、「たまたま」不登校に至るまでの過程を描き出してしまったという趣がつよい。なので結末も、主人公の「僕」が救われもしなければ、堕落もしない。小学生の「僕」が何ら変化することなく、おわりを迎えている。

 この作品から漂う雰囲気を伝えるのはなんとも難しい。物語から、うらぶれた様子が感じられるであろうが、滑稽さがほのかに流れ出ているため、実際はそこまで悲哀が滲んでいるものでもない。かといって、主人公をみて、ニヤニヤできるほどの愉快さもない。読者が、じんわりと少年の心を《わかってしまう》、なぜ不登校になってしまったのかを《感じ取れてしまう》、そういった雰囲気である。「ああ、なるほどねえ……」とつぶやいて、少年を思い、しばしポカーンとする。いわば、茫然としてしまう要素を多くふくんだ内容なのだが、それでも本篇はほかの短篇とくらべると、“むなしさ”の色が濃いように思われる。なぜかといえば、それはきっと、主人公の性格が、自分に対しておどろくほど素直であるからだろう。

 《学校》という場に意図せずして疎外されてしまった「僕」の心は、サラリーマン生活を送っている方にはとても響くように思う。つい、共感を覚えてしまう方は多いはずである。主人公が「子供」だからと侮らず、大人にこそ、読んでほしい一篇。

 

秘密

 暗澹と幻惑にみちた物語である。

 現実の世界と夢の世界が交じり合い、溶けあっていて、読む者を曖昧な世界へと引きずりこむ。

主人公の「僕」はある夜、橋のたもとで人を待っていると、巨大な「蛸」があらわれ、橋の番人を襲い、闇に姿を消す。恐ろしい光景に怯え、「僕」は呆然とする。“事件”を目撃したあと、喉が渇いた「僕」は飲み物を欲し、ポケットに手を入れると、湿った紙幣が。歩きながら、病気もちの「僕」は、障碍者年金をもらいにいったことを思い出す。「僕」と職員の不穏な会話。そして気付けば、かなりの距離を歩いており、いままで多くの品が目の前を過ぎていったが、歩き続けていた。洋服屋のまえでふと立ち止まる。そこでは若い男の店員がひとりでタンゴのステップを練習していた。相手の女はいない。ひとりでクルクル、クルクルと踊っている。それは瞬く間に膨張し、やがて「蛸」の足になる。みるみる大きくなり、街中を覆い、「僕」を絡みとる。母の声。目覚めてみると、すこし頭がへんになった母が。母に呼ばれたので寝床を這い出ようとすると、水のぬかるみ。ひどく暗い。歩いているとトンネルのような場所に着く。四五人の靴磨きがたたずみ、みな片手を差し出している。近寄ってみると、唇を真っ赤に塗った売笑婦たちであった。そのひとりに名前をよばれ、誘いかけられる。断る「僕」。しかし、女が去ったあと、後悔する。しばらく歩いていると、さきほどの女が後ろに。なにかしゃべっている。女の声は聞こえない。母の声。そして、機関車。機関車の明かりからまた「蛸」の足が。「僕」は逃げ出す。公衆電話に駆け込む。助けをもとめようと電話。けれども受話器から聞こえてくるのは職員との不穏な会話。逃げ出す。あてもないまま。

 漠然とした不安と焦燥感をない交ぜにして具現化したような話である。読者にひたすら悪夢をみているような感覚を想起させる。だが、幻想小説か、と問われればそこまでの域に達した作品とはいいづらいし、かといって文学的作品かと問われればそれも首をひねらざるをねない。あくまでこの作品は「内面に迫る、ぼんやりとした不安」を大きく取り上げているので、判然と捉えるのは容易でない。それぞれどう感じるかは読者自身に委ねられているだろう。曖昧模糊とした世界観が好きな方であれば合うかもしれない。けれど、個人的な見解を述べれば、安岡の精神世界が強烈に編みこまれた短篇といった印象である。彼の作品を隅々まで読めばわかるが、障碍者年金のくだりや、母、女がほかの作品ではメインとなって語られている。とくに母や女は本書に収録された短篇にも登場している。読みようによっては、安岡好きにはたまらない、原石の輝きが垣間見れる、通好みの《荒削り》作品ともいえよう。

 

 雨ばかりの毎日。鬱屈とした主人公「私」は思い切って強盗をしてやろうと考え、ナタを片手に町をさまよい歩いて、三日が経っていた。裕福そうな家に眼をつけ、いざ、押し入ろうとベルを鳴らす。すると、婦人が応対に出て、ナタをもつ「私」を電気屋さんだと勘違いし、朗らかな歓待を受けてしまう。拍子抜けした「私」はいっそのこと電気屋さんになりすましてやろうかと思うも、家のなかにいる複数の人の気配に怖気づき、逃げ出す。小さな公園にたどり着き、今度はここの草むらで待ち伏せて襲ってやろうと画策する。早速、ひとがやって来る。坊主頭の神主らしい男であった。彼は裕福な人間に金を恵んでくれと頼み込んでは断られているらしい様子だった。ふと、ナタをもつ手をゆるめ、同情してしまう「私」。しかし、金がないといいつつ、弁当を取り出して美味そうな匂いを漂わせて食べる男に「金はないクセに、食べるものはあンのかよっ!」とキレる。しかし、どうも気が抜けて襲いかかれない。

 こんな内容である。

 「やるのか! やらない……。やるのか!? やらない……。やるのか!! ……。」と、読者の気分が高まっては、たちまちそれをいなす作品である。とにかく、《拍子抜け》が充分に味わえる。「私」と同じく、徐々に読者もモヤモヤしてくること間違いナシだ。しかし、ここから安岡のもつ独特の味が展開されるといってよいだろう。あくまで本篇は舌慣らしによい短篇である。ページ数も15ページと、ごく短めなので、さらりと読める。重要なのは、上記にあげた『宿題』や『秘密』とちがって、読者がこれといった感情を抱くことなく、茫然とした状況に陥ってしまうところである。あとにつづく短篇はいずれも、「これといった感情が抱けないのに、茫然としてしまう」が洗練され、鋭さを増して読者に奇妙な読後感を与えはじめる。

 

愛玩

 新潮文庫ではラストを飾っている短篇。

 ページ数は全18ページと短め。すらっと読めてしまう。

 主要人物は三人。

 脊椎カリエスを患い、まともに働くことのできない青年の「僕」と、商いに失敗してしまってどこか呆けてしまった母、そして戦争帰りで何も出来ないぐうたらな父。

 この「まともに生活する能力のない」一家は、当たり前のように貧乏をしており、お互いの関係もぎこちなく、妙によそよそしい。あるとき、父が貧乏から脱すべく、発起して獣軍医の経験を生かしてウサギを飼いはじめる。そして徐々にぎこちない家族はこのウサギに振り回されていく、そんな話だ。

 なんとも「ハハッ!」と空笑いしてしまうほど、すこし物悲しくもたいへん滑稽な作品である。本篇は『宿題』と同じく、なにか教訓めいたテーマが隠れているわけではない。ただ、こんな話があってね、という安岡の語り口が聞こえてくるような内容である。深みがないので、するすると読めることだろう。唖然とする結末に驚き、読んだあとの《へんな余韻》にひたればよい作品だ。

 しかし、深く読みをいれていくと、家族描写の精妙さが素晴らしいことに気付くはず。人間の心理描写を書き出すのに非常に優れた小説家はほかにいるが、「家族のちぐはぐさ」を簡素な文で表現し、「ウサギ」で読者にそれと悟られることなく、《ありのままの親子関係》をほのかに《臭》わせる技術は見事である。酒の肴にふさわしい一篇。

 

 

後篇へつづく……