ネコノツメ編纂室

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中上健次著「十九歳の地図」 前篇

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・内容 8

・読みやすさ 7

・おもしろさ 6

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:単調な日々に慣れてしまった方

 

 

  「岬」につづく、中上健次代表作。わりかし有名なはずである。

 と書きつつ、今の世のなか、中上健次がどれほどまでに浸透しているか疑問だ。とにかく、中上健次をよく知らない方がいれば、まずは本書をおすすめする。ほかの作品はアクがあり、苦手意識をもつかもしれない。

 内容についてはいきなりあっさりと片付けるつもりはない。

 今回は短篇集ということで、前後篇にわけている。そのため、本稿では収録されている四篇のうちの二篇、「一番はじめの出来事」と「十九歳の地図」のみを取り上げる。それぞれの短篇の書評にどういった内容なのか、味なのかを記しているので、さきに作品の雰囲気を掴みたい方はそれぞれの題名が太字で書かれているところまで読み飛ばしてください。

 

 さて、中上健次といえば、「愛すべき悪たれ」といった単語が脳裏をかすめるのだが、みなさんはどうであろう。

 彼は和歌山県の被差別部落出身者で、作品はどれも己の出生地を舞台にしたものや被差別部落の血族に対してのものが多い。社会で虐げられてきた者、タブーとされていた者が文学で身を起こし、なおかつ自らの経験を主にした内容は、過激であり、深刻。そのため、世間に衝撃を与え、注目を浴びた小説家である。

 多くの小説家の生涯は波乱にみちたものばかりであるが、なかでも彼の生涯は、さらに特異というべきか、ネタに富んでいるというべきか、とにかく一筋縄ではいかない生い立ちをもっている。

 出生からして問題を抱えており、母が前夫とすでに五人こどもを作っており、あらたに夫との間に健次を生むも、その後、夫が三股かけていたことが発覚、離別、そして新たな夫と入籍し、さらにこどもを……という。

 つまり、中上健次は長男であり、次男であり、三男でもある複雑な兄弟間のなかで育った。十二歳の頃には、もっとも近しい兄が首吊り自殺。健次の心にショックを与える。やがて成長し、立派な不良少年に。しかし、不良らしからず、読書に熱心だったようで、とくにフランス文学を耽読していた。

 大学受験を名目に上京。予備校生生活を送るものの、その生活たるや、怠惰そのもの。勉強をロクにせず、親の仕送りに頼り、当時流行っていたジャズ喫茶に入り浸り、小説を書き、なぜか、当時無名であった柄谷行人(文芸評論家)と知り合い、一緒に遊んだりしている。

 やがて伝奇作家となる山口かすみ(紀和鏡)と出会い、彼女の妊娠発覚とともに結婚。肉体労働に従事しながら本格的に執筆活動に専念する。

 彼の半生記はあらましこんなものであるが、ほかにもいくつかこぼれ話があって、むしろこぼれ話のほうが……いや、これは後篇で語ることにしよう。

 

・一番はじめの出来事

 この短篇は《子供》から《大人》へと成長していく過程を書いたものである。

 注目すべきは、なだらかに《大人》へ変化していくわけではなく、ある瞬間から我に返ったように《大人》になるところだ。

 舞台はとある被差別部落。

 山々に囲まれた土地で、主人公「僕」、秀、白河君、鉄の少年四人は海賊ごっこ遊びや、「えたいの知れない大人」の象徴として登場するキチガイの輪三郎へのいたずらに興じている毎日。あるとき、「僕」の兄が焼夷弾で焼けてしまった家を新たに建て直した話を「僕」は三人に披露し、熱を帯びた四人は新たに〈秘密〉の塔づくりに励み出す。何の変哲もない少年時代の冒険心に満ちた日々。白川君の身体の変化(陰毛が生える)、「僕」と兄との親密な会話、犬の飼育、母と姉の喧嘩――。そして、〈秘密〉の塔が完成間近に突然の兄の首吊り自殺。「僕」は兄の死を無感動に迎えるがやがて涙し、途方もないものを感じる。そこへ秀が輪三郎の家に火をつけに行こうという「いたずら」を提案。「僕」は無邪気な子供を装って、いつものように仲間と火をつけに行く。しかし、かつてはなかった思い「大事になりそうだったら、とめよう」という《大人の打算》がその胸には芽生えていた。

 といった内容である。

 ここでは、《子供》から《大人》になりかけている人物がふたりいる。

 「僕」と白河君である。

 「僕」は本当の親でない父と自分の気持ちを偽って暮らし、白河君は朝鮮部落の生まれであるにもかかわらず、朝鮮人ぎらいを公言し、自分の気持ちを押し隠して暮らしている。

 作中、この両名のみが「自己欺瞞」に陥っており、それに少なからず思いを抱いている。そこでひとつ飛びぬけて明確に《大人》へ変貌してしまうのが「僕」である。

 兄の自殺を経て、「生」の鮮やかさが薄れるのである。輪三郎へのいたずらも〈秘密〉の塔づくりもくだらなく、なにより「えたいの知れない大人」であった輪三郎が「僕」と立場を同じくする人間であることに気付くのである。

 ここまでスッパリと《大人》への転換を描き出した作品は数少なく、一読の価値はある。風景描写がなかなか巧みで、男であれば一度は味わう、少年期の、汗にまみれながらも精一杯遊びまわった色鮮やかな世界が広がっている。

 いつからアリを熱心に踏み潰さなくなり、いつから単純な物事で泣かなくなってしまったのか。ふと立ち止まって、読者が自分の“転換期”を掘り返さずにはいられない作品だ。

 十代の頃に読んで物思いに耽るもよし、社会人になってから読んで郷愁の念に駆られるのもまた、よいだろう。

 

・十九歳の地図

 シンガーソングライターの尾崎豊の曲『十七歳の地図』のもとにもなった。

 「青春」とは数あれど、そのなかでも、うらぶれた青春を見事に捉えた名短篇である。

 主人公の「ぼく」は予備校生で新聞配達のアルバイトをしている十九歳の青年である。アルバイト先の寮で、紺野という、へんな三十代の男と一緒の相部屋で暮らし、隣近所の人妻を夢想してはオナニーしている。趣味は、配達の最中、気に食わない家があれば、そこにささやかな罰を与えること。罰を与えたら、物理のノートに丁寧に書き込んだ地図に×印をつけていくことだった。

 そんな毎日を送る「ぼく」は、底辺の生活、社会における敗残者たちとの関わりを経て、次第に鬱屈とした感情が濃くなっていく。「かさぶただらけのマリア」という曖昧な人物(?)が、みじめな紺野の救いであるように、「ぼく」もいつしか救いを求めて東京駅に爆破予告の電話をかけるようになる。一方で、紺野の救いである「かさぶただらけのマリア」が本当に存在するのか探し出す。しかし、「かさぶただらけのマリア」の存在は淡く、また刺激を求めて電話をかけはじめた爆破予告もやがて職員の本気にされない態度から、自分の存在をも否定されたような錯覚に陥る。まわりの人々は幸せそうに毎日を過ごしているのに、自分はひとり、しあわせでもない、みじめだ、誰からも相手にされないと思い込み、「ぼく」は最後、「かさぶただらけのマリア」と思しき人物の言葉を反芻してぼんやりと静かに涙を流す。

 かなり大雑把に要約すると、こういった内容である。

 物語の流れは叙情的で、裏を探って深読みするよりも、素直に正面から無心で読み進めていったほうがよい。大半の者が、自然と「ぼく」に馴染むであろう。小説が苦手な方でも身を入れて読むことの出来る、とてもやさしい作品だ。

 内容としてはもちろん、あらすじをみればわかると思うが、良い意味で青臭い。将来への漠然とした不安、くわえて社会に自分の存在を知らしめたいといった気持ち、たまらなくなって自棄をおこしてしまう、そんな経験が誰しも一度はあるのではないだろうか。それを見事にカタチにしている。

 これもまた、『一番はじめの出来事』同様、「気付けば、失われていた情念」を思い起こすのに適した短篇であるが、それ以上にくすんだ青春を送る若者が読むほうがふさわしいのかもしれない。「私小説」の入門書としてもよい短篇である。

 

 

 

 

後篇へつづく……