ネコノツメ編纂室

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柴田翔著「されどわれらが日々――」

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内容 8

・読みやすさ 8

・おもしろさ 5

*それぞれ、10点満点中の評価。

オススメ対象者:毎日をただなんとなく生きている方

 

 

 本書の書き手である柴田翔さんは、開高健小田実といった名だたる小説家たちと肩を並べていた、60~70年代を代表する小説家のひとり。もちろん、純文学の物書きである。しかしながら、彼は、高橋和巳(小説家、中国文学者)の死後ほどなくして、小説を書かなくなってしまったため、時の流れとともに知名度は風化してしまった。どちらかといえば、小説家というよりも、東京大学文学部教授として名を馳せているのではないだろうか。

 今ではすっかり小説家としての影は薄れてしまったものの、その実力たるや相当なもの。思わず、唸らざるをえない作品をいくつか残している。今回は、第51回芥川賞を受賞した彼の作品を取り上げよう。

 2015年1月現在、書店に出回っている彼の作品は、本書のみ。

 「されどわれらが日々――」は表題作ほか「ロクタル管の話」の計二篇からなっている。それぞれ、60年代の時代背景を匂わせる内容になっており、いずれも一口にいえば、青春小説だ。

 

されどわれらが日々――

 表題作の「されどわれらが日々――」は、主人公の「私」と、幼馴染であり、婚約者である「節子」とのあいだに生じた「事件」の物語である。簡単なあらすじを述べる。

 

 時は60年代。

 さまざまな若者が共産主義に熱狂し、学生運動が盛んで、青春の象徴であった頃。

 主人公の「私」は、当時にしてはめずらしく、学生運動に興味を示さない、何不自由なく暮らしているインテリ大学生。「なんとなく、いまを生きている」若者である。とくに熱中するものもなく、いくらか女遊びはするが、恋愛に沈むこともなく、幼い頃より知っている節子となんとなく結婚しようとしている。

 彼があるとき、アルバイト帰りに古本屋で状態のよいH全集を手に入れる。毎週土曜日に彼の自宅に泊まりに来る節子がひょんなことから、彼の購入した全集を手にしてしまう。表紙の扉には判が。この判は佐野という、ひとりの青年の所持品であった印であった。そこから、徐々に節子は内面に変化を来し始める。

  ここで補足しておくと、なにも「私」と節子はラブラブな恋人、というわけではない。すべて「なんとなく」で片付いてしまう「結婚」のための間柄だ。

 親が仲良いから、幼馴染だから、といった理由で付き合ってるだけなのである。そのため、「私」は高校、大学と、ほかの女と遊んでいる。むろん、節子も想い人がいたりするのである。

 さて、話を戻して、本の持ち主であった佐野という人物は何者なのか。

 彼は「私」とはうって変わって、学生運動に若さを燃やし、党を離れたあとは、自分がただの凡人であることを自覚。平凡な暮らしをしようと心に決め、サラリーマン生活に打ち込むも、「青春時代に信奉した共産主義」のなかでも、「何気ない資本主義での生活」でも得られない「人間の幸福」とはなにかに悩み、自殺を遂げてしまう人物である。彼の手紙が作中に挿入されるが、読者のこころに突き刺さる。学生運動をやった人間だけでない、誰もが共感してしまう内容なのだ。とくに今の若者にはグッとくる内容だと思う。いわば、彼は「青春」に殉じた素直な青年なのである。

 そんな彼と一度デートまがいのことをしたことがある節子。彼女は、「私」を通して佐野の生き様を知り、「なんとなく生きる」ことに違和感をおぼえ、「私」とのぼんやりとした関係から脱しようともがき出す。

 途中、さまざまな若者の青春(「私」に恋をし、やがて自殺してしまう優子など)が描かれ、節子の苦悩も濃くなっていく。そして苦悩のすえ、彼女は駅のホームで電車へ身を投げてしまう。

 「私」はこの事件を期に、節子にたいして深い愛情があることを自覚する。ほどなくして、節子は生還。平和な日々。しかし、物語はここで終わらない。退院し、節子は「私」のもとを去り、遠くへ旅立って物語は幕を閉じるのである。

 さいごに「私」に残した節子の手紙がまた、読者の胸に迫る内容である。とても、せつなく、かなしい。佐野の手紙が「青春」であるとすれば、節子の手紙はふたたび「私」と会うための「青春との訣別」である。

 

一貫して、「私」は不動であり、心境の変化は一切ない。めまぐるしく変化していくのは周りの人物たちという、近現代の小説によくある手法とは逆である。いかにも20世紀文学らしい特徴を備えているといえよう。少々、風変わりなのは一人称でありながら、他者の記憶や手紙が物語に挿入されているところ。これがかえって、読者に人物の深追いをさせ、読みやすく、また感化させやすくしている。

総評すると、「青春」がどの人物からもつよく香りたち、一瞬の明滅がとにかく素晴らしい。なにより注目すべきは、展開が深刻かつ悲哀に満ちたものであるにもかかわらず、ほんのりと明るい希望にあふれているところである。これは稀有だ。坪内逍遥著「当世書生気質」や、織田作之助「青春の逆説」、中上健次著「十九歳の地図」、金城一紀「GO」などと青春小説は古今さまざまなものがあるが、本書は群を抜いている。文章はやわらかく、それでいて内容に深みがあり、もっとも「いまを生きる若者」に適した読み物といって差し支えないだろう。「青春」とはなにか。自分の人生とは何なのか。毎日をただ過ごしているだけの方は、必読である。読んで決して損はない。

 

 

ロクタル管の話

 「ロクタル管の話」は、主人公「ぼく」が当時高価であったロクタル管を安く手に入れるものの、それがコワレモノであったという単純な物語。すこしだけ詳しく記す。

 60年代といえば、少年たちの趣味はラジオ制作が主だった。皆がこぞってラジオの部品の話に花を咲かせては、高価で容易に手に入らない部品に思いを馳せていた。「ぼく」もそのひとり。彼はあるとき、ほのぐらい路地のアヤシイ店で、憧れていたラジオ部品のロクタル管をみつける。自分の小遣いで買えるロクタル管に、「ぼく」は昂奮し、購入するも、破損部分があり、お金を騙し取られただけだった。店で返品を頼むといくらか金は戻ってきたが、結局は全額戻ってこなかった、でも壊れているとはいえ、ロクタル管はそのまま。しょうがないと諦め、歩き出す、といった内容だ。

 表題作とはちがい、登場人物たちが込み合っておらず、単純明快、至極簡単な話である。文量も、「されどわれらが日々――」より短く、頑張れば一日二日で読める。

 しかし、ラストが言葉にできないほど読者の心に来る。くわえて、物語の底に流れる読者への訴えかけが強烈だ。

 ここで、やや立ち入った解説をしよう。すこしばかり、難しいかもしれない。「ロクタル管の話」の本質を知りたい、または興味があるという方のみ読んでみてください。

 作中に登場する「ロクタル管」。これは「ぼく」にとっての「憧れ」であり、実際に存在する「物」である。そのため、「ロクタル管」に関しての描写が非常に細やかである。この「憧れ」は金を払えば、手に入れることができ、それを触ったりなでたりと、体感できる。それはまア、当然だ。

 たしかに存在する物にのみ、真価を見出す考え方を実存主義(20世紀を代表する思想。戦争後の混迷期に、神や愛といった抽象的なものは軽視され、「形として存在するもの」を重要視した主義思想)というのだが、「ぼく」は意図せずしてその信奉者になっている。そんな彼が、「憧れ」を買う。手に入れた彼は昂奮する。だが、コワレモノ。ここからが物語のミソである。「ぼく」は当然のように店に返品しに店へ行くが、すこしの金を払い戻されただけで追い払われる。そこでコワレモノとはいえ、「憧れ」のロクタル管が手に入ったんだから、と自分を慰めて「ぼく」は「憧れ」とともにウキウキと歩き出すのだ。時は経ち、書き手である「ぼく」はふとその頃を思う。

 あのとき、ぼくは本当にウキウキと歩き出したのか? という疑問を提示するのである。もしかしたら、こらえきれず、怒りに身を任せて、ロクタル管を地面にたたきつけ、割ったのではないか、と。つまりは、ウキウキと歩き出すという嘘を、生涯に幾度も自分につき続け、生きているのではないか。一方で、しょうがない、しょうがないと諦め、一方で、でも、でも、と自分を慰め、生きているのではないか。すべてはあのとき、あの瞬間に「自分にたいする嘘」がはじまったのではないか。と独白するのである。

要素として面白いのは、「ぼく」を不安定な立場に追い込んだものは「形として存在するもの」だということ。確かなものすら、確かでない、という戒めを読者に投げかけているところである。

「形として存在するもの」すら、疑う。

 当時隆盛を極めていた実存主義に懐疑の目を向けているこの作品は地味ながらも実存主義の半歩先を行った秀作といえないだろうか。

 

 

  以上が二篇の書評である。

 いずれにしても、柴田翔さんは生粋の小説家が経験することのない、「けだるい」「ふつう」「なんとなく」といった一般人らしい経験をしてきたからこそ、平易で読みやすく、多くの人間に共感を呼び起こす内容が書けたのではないかと推測する。昨今では、たいへん地味で、目立たない小説家であるが、むずかしいのは苦手だけど純文学を読んでみたい、と考えている方には自信をもっておすすめする。純文学はなにもコムズカシイものだけじゃない。ただ、純文学に対してのおもしろさの評価は、ひとそれぞれなので、5点とした。